八甲田スキー場遭難事件 初心者の春スキーは難しい

関東は晴天に恵まれていますが、日本海沿いの東北や北海道ではここ数日、猛吹雪の毎日でした。
ホワイトアウトを起こし、交通事故が多発。
雪溜まりに車が嵌って動かなくなり、排気ガスが車内に充満し亡くなる方や、低体温で亡くなる方もいらっしゃるとのこと。
この時期は、天候が荒れます。
明治35年1月、日本陸軍第8師団歩兵隊が雪中行軍の途中で遭難した、八甲田雪中行軍遭難事件もこの時期でした。
訓練参加者210名中199名が死亡する、世界最大級の山岳遭難事件と言われています。

八甲田山は一つの山ではなく、連峰の総称だそうです。
山岳スキーの名所でもあり、春になると大きなゴンドラに沢山のスキー客が乗り込み、山頂を目指します。
ロープウェーの山頂公園駅がある田茂萢岳は、連峰の一つです。
お椀を伏せたような形をしており、山頂から裾へ滑降するコースが幾つかあります。
長男が中学生、次男が小学生の頃、八甲田へ春スキーに出掛けたときの出来事です。
中学生の長男は、私と一緒にゴンドラへ乗り、山頂から滑ることに。
まだ小学生だった次男は、麓の八甲田スキー場でリフトに乗り、家内がゲストハウスで見守る中、一人で滑ることになりました。

山頂は思いの外狭く、百人のスキーヤーが降り立てば、殆んど余裕が無いほど。
端から早く滑り降りないと、円の中心部にいる人は何も出来ません。
実際は広いのかも知れませんが、その時私はそう感じました。
スキー場のコース見取り図には、幾つかのコースがあるように書いていました。
しかし、実際に山頂公園駅へ到着すると、何の誘導もありません。
少なくとも、その当時はそのように思いました。
圧雪し整備されたゲレンデは存在しません。
何処からスタートすれば良いのか人に尋ねると、何処でも良いとの返事。
八甲田山を知り尽くしていれば別でしょうが、何しろ全く初めてなので、人が滑った場所を暫く観察し、参考にしようと考えました。
しかし、人それぞれ千差万別。
四方八方、散らばるかのように滑り始めます。
皆さんがスタートする一定の場所はなく、一番緩やかそうなところを選んで滑り出すしかありません。
子供と一緒でもあり、少しずつ降りては止まり、降りては止まりを繰り返しながら進んで行きました。
お世辞にも上手とは言えない技術で、八甲田の春スキーを遣ってみようと思うこと自体が無謀です。
現実は滑ると言うより、少しずつ山を下るという感覚。
途中、足元が全く見えない断崖絶壁に遭遇した時は、泣きたくなりました。
降りてきた斜面を再び登り、迂回に迂回を繰り返す、正に雪中行軍です。

スタートして暫くしたころ、ふと気付けば息子が見当たりません。
「おーい、おーい」と叫ぶと、小さな声で「おーい、おーい」と聞こえます。
山彦にしては、一寸おかしい。
良く辺りを探すと、木の幹を抱え込むように座り込んだ息子が坂の途中にいました。
「何してるの?」と聞くと。
「滑っていたら、こうなったの」と言う。
どうも、木の真正面から衝突し、幹を抱え込む状態で止まったらしい。
まるで、漫画のような格好です。
確かに、スキー板を付けたままで座り込んでしまえば、身動き出来ません。
雪の窪みから引き上げ、更に下へと向かうこと2時間。
山頂スタートから3時間ほどで、漸く麓の道路へ辿り着きました。

一方その頃、麓にある普通のゲレンデでは、別の事件が起こっていました。
次男一人でリフトに乗り込んだものの、到着地点で降りることが出来ず、そのまま折り返し。
また、出発した搭乗地点まで戻ってくるかと思いきや、途中で停止して仕舞いました。
リフトは止まったまま、次男は宙ぶらりんの状態。
事の経緯は不明ですが、係員が梯子を掛け、次男の救出が始まりました。
スキー場にアナウンスが轟き、場内は騒然と。
家内は、恥ずかしくて肩身の狭い思いをしたというお話です。
更にまた、私と長男の帰りが余りにも遅いので遭難したかと心配し、捜索願を出す寸前だったと怒りの矛先がこちらに向けられました。

1977年の映画「八甲田山」は、当時の興行成績第1位を獲得しました。
北大路欣也さんの台詞、「天は我々を見放した」は当時、流行語となった程です。
ゴールデンウィークを利用した春スキーですが、図らずもミニミニ版の「天は我々を見放した」状態を体験させて貰いました。
言うまでもなく、八甲田の自然は厳しく、冬季の立ち入りは出来ません。
日露戦争を見据えたものだったのでしょうが、余りにも犠牲が大きい軍事訓練となって仕舞いました。

舘内記念診療所

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