千代田区大手町にある将門の首塚は、昔から開発されることなく大きなビルの谷間に佇んでいます。
地価の高いこの場所は、これまで幾度かの開発が試みられました。
その度災難に晒されたため、将門の祟に遭わぬよう其の儘首塚が祀られるようになったそうです。
首塚の起源は、京都で晒し首になった将門公の頭が飛んで行き、落ちた場所だと言われています。
平安時代中期、東国「とうごく」(主に、関東地方や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指すようです。)で将門公が朝廷に反旗を掲げ、俗にいう平将門の乱を起こしました。
乱を起こした原因は、その地を治めていた国司の締め付けが余りにも酷く、農民は悪政に苦しめられていたため、民を救うべく将門公が立ち上がったとの説が有力です。
これに手を焼いた朝廷は、乱を治めるために兵を派遣し、同時に平定の祈願を大寺院へ命じました。
密命を受けた寛朝僧正は、京都高雄山神護寺に安置されていた空海作といわれている不動明王像を携え、総国「ふさのくに」(現在の千葉県が主な地域で、茨城県や東京都の一部を含んだ律令制以前の旧国名だそうです。)に出向きます。
御護摩を焚いて祈願を行い、21日目。
放たれた朝廷軍の一本の矢が風に乗り、将門公の額に命中したと言われています。
任務を終えた寛明僧正は、不動明王を引き上げようとしましたが像が動かず。
この地に不動堂を建立して祀りました。
これが成田山新勝寺開山の起源だそうです。
神田明神は、将門公の身体(からだ)から神田(かんだ)に訛ったとも言われますが、もともと神田の地は伊勢神宮の御田があり、神様の田んぼから転じて神田となったそうです。
言い伝えでは、将門公の首は刎ねられ、その首が大手門の将門塚まで飛んで行き、身体は後を追いかけて彷徨い、神田明神辺りで力尽きたと言います。
後に江戸で疫病が流行し、その疫病が将門公の祟りではないかと庶民は恐れました。
この怨霊を鎮めるため、神田神社へ将門公をお祀りしたという歴史的な経緯があるようです。
このため、成田山と神田明神は表裏一体。
成田山と神田明神を一度に参詣すると、将門公を苦しめることになるため、災いが起きると言われています。
お参りにお出かけの際には、暮れ暮れもご注意下さい。
舘内記念診療所