井戸から冥途へ出入り 小野篁は不思議な人物

「わたの原八十島(やそじま)かけて漕(こ)ぎ出でぬと 人には告(つ)げよ海人(あま)の釣船(つりぶね)」 
参議篁(さんぎたかむら)

小野篁は、平安時代の役人であり歌人です。
最終的な職位が「参議」だったので、百人一首では「参議篁」と表されています。
小野妹子の子孫であり、孫には、書家として有名な小野道風(おののとうふう)がいます。
小野小町も孫にあたると言われたりもしますが、これは本当かどうか分かりません。

小野篁が36才、西暦830年ごろ、藤原常嗣を大使とし、唐副使に任じられました。
しかし、大使が乗る船に水漏れが発見されます。
急遽、大使は乗る船を変更。
篁が乗船する予定の船へ乗り換え、篁は壊れて水漏れがある船に乗せられそうになりました。
壊れた船に乗ることを断固拒否。
藤原常嗣だけを出発させ、
病気と偽って自分は居残りを決めました。
さらに、遣唐使はもう古臭くて何の役にも立たないと風刺する詩を作り、世に公表します。
篁のこれら一連の行動は上皇の怒りを買い、隠岐へ島流しになって仕舞ったのです。

冒頭の和歌は、この時に詠まれたものだと言われています。

漁師の皆さん、私はこれから大海原に向かって船出をします。
一寸、行って来ますので、都にいる人へ元気に出ていったと伝えて下さい。

と言うような内容でしょうか。
しかし島流しは、死刑と同じように重刑です。
普通、都へ帰ることなど二度と出来ません。
そもそも犯した事への罰としては、重すぎる処罰だと思います。

2年後、篁の才能を良く知っていた嵯峨上皇は、篁の帰郷を許すことにしました。
奇跡的な復帰を世間では皆、驚いていたに違いありません。
更にまた、篁は身長190センチ程の長身でした。
その当時としては、完全に他を圧倒するほどの大男だったと思います。

その様な背景があるためかどうかは分かりませんが、小野篁は不思議な伝説の持ち主でもあります。
昼間は役人として仕えながら、夜は京都六道(ろくどう)珍(ちん)皇寺(のうじ)の裏手にある井戸から冥途世界に下り、閻魔大王に仕えていたとの言い伝えがあるのです。
この伝説は、「古今物語集」など、平安末期から鎌倉時代にかけて記された文面にも残されています。

病のため、51歳で惜しまれつつ、この世を去りました。
12月22日は小野篁の命日。
京都千本閻魔堂(引接寺(いんじょうじ))では毎年翌日12月23日に小野篁忌が執り行われ、一年の嘘を書き記した嘘申告書なる札を護摩木と一緒に燃やして供養するそうです。

冥途では罪人の弁護を請け負っていたようですが、篁ご自身の裁きに助けは無用だったのでしょうか。
そんな事は、余計な心配かも知れません。

舘内記念診療所

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