落語に「崇徳院」という演目があります。
崇徳院といえば、平将門公、菅原道真公と共に、日本三大怨霊のお一人として有名な崇徳院ですが、落語に取り上げられた題材は、崇徳院の詠んだ和歌です。
金持ちの若旦那と綺麗な町娘が上野にある清水堂のお茶屋で出会い、一目惚れして噺が始まります。
お嬢さんが落とした袱紗を拾い上げると、
「 瀬を早み 岩にせかるる滝川の 」と和歌が書かれた短冊を渡された。
下の句は「 われても末に あはむとぞ思ふ 」です。
末には夫婦になりましょうともとれる謎掛けの短冊を貰って以来、恋煩いで若旦那は寝込んでしまった。
それから先の顛末は、長くなるので書き尽しません。
この落語に使われた和歌は、小倉百人一首のなかに収められた崇徳院の和歌です。
「 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 割れても末に 会わんとぞ思う 」
別れても末には必ず会いましょうという恋慕の意味になりますが、崇徳院の数奇な生涯を思えばまた、その意味も少し違ったものに感じます。
崇徳天皇は、生まれながらに不幸な立場でした。
この時代、絶大な実権を握っていた白河天皇が、その原因です。
鳥羽天皇の上皇となった白河上皇は、幼い頃から寵愛していた女性を崇徳天皇の父、鳥羽天皇の后に据えます。
しかし、白河上皇はその女性が輿入れした後も頻繁に密会を繰り返していました。
そのため、鳥羽天皇の子として生まれた崇徳天皇は、白河天皇の子ではないかと囁かれていたのです。
これは、公然の秘密になっていました。
快く思っていなかった鳥羽天皇は、後の崇徳天皇に辛く当たるようになります。
白河上皇は崇徳天皇を、自分の子供であると思っていたかどうか分かりませんが、白河上皇の命により、鳥羽天皇から崇徳天皇へ若くしてその座を譲ることになります。
しかし、白河上皇が亡くなることにより、崇徳天皇は後ろ楯を失って仕舞います。
鳥羽上皇が院政を行うようになり、これまでの状況は一変するのです。
崇徳天皇は権力の座から追放され、異母兄弟の近衛天皇にその座を明け渡します。
しかし、近衛天皇は即位後、間もなく亡くなってしまいました。
近衛天皇を崇徳天皇が呪い殺したと、あらぬ噂がたちます。
それを知った鳥羽上皇は怒り、鳥羽上皇の命で崇徳天皇の同母の弟にあたる後白河天皇が即位することとなるのです。
その後、鳥羽上皇が亡くなる際には、臨終にも立ち会うことが許されず、ご遺体との面会も拒否されたそうです。
しかも崇徳院の家は、軍によって制圧されました。
何とか逃げ出すことが出来た崇徳院のもとに側近が集まり、後白河天皇と崇徳院の間で戦が始まります。
互いにそれぞれ、源氏や平氏が味方し、合戦を繰り広げることになった保元の乱です。
これに敗れた崇徳院は、讃岐の地へ配流となります。
讃岐では、反省の意思を示すため日々写経を行いました。
沢山の写経を都へ送りましたが、これに呪いが込められていると写経の受け取りを断られ、送り返されてしまいます。
これに怒った崇徳院は、自分の舌を咬み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書き記し、その後亡くなったということです。
崇徳院の死後、後白河上皇を始め側近の不幸や度重なる事件、災害が相次いで起こり、これが崇徳院の呪いではないかという噂が広がるようになりました。
冒頭の和歌は、配流となった後に作られたものではなく、天皇として即位していた若い頃に詠まれたものだそうです。
この和歌は、先に述べた通り恋愛の歌です。
しかし、運命を知ってしまった読み手は、どうしても崇徳院の不遇な生涯を重ね合わせて仕舞います。
初句の「 瀬をはやみ 」は、急流のように崩れて流された崇徳院の運命を彷彿とし、更に、「 割れても末に会わんとぞ思う 」という下の句に、都へ帰るという強い意思を感じずにはいられません。
怨霊となっても不思議ではない程の運命は、崇徳院が怖いというより寧ろ物悲しくもあり、可愛そうとも感じます。
落語の演目になった理由は良く分かりませんが、恋愛の歌としてそのまま素直に使われています。
この演目が作られた時代、誰が聞いても直ぐに分かるほど、小倉百人一首が庶民の生活に溶け込み、親しまれていたのだろうと思います。
もちろん、崇徳院が生きていた時代には、落語などありませんでした。
この演目に関わった落語家に、祟りが遭ったという話は今のところないようです。
しかし、まさか後世、自分の和歌が落語の演目に使われようとは。
崇徳院にとっては、思いもよらぬことでしょう。
舘内記念診療所