アクビは脳の冷却と覚醒をもたらす

今年の夏は本当に暑かった。
全国で観察された酷暑の記録は塗り替えられ、テレビでは毎日のように熱中症への注意が伝えられました。
しかし、「こんな暑さは、今まで経験したことがありません」と言えば嘘になります。
かなり昔の話になりますが、ある病院に勤務していた頃、危険なほど暑い医局で過ごした経験があります。
当時、勤務していた病院の医局は、改築のためプレハブ小屋。
真夏の暑い最中、プレハブ小屋で過ごした経験をお持ちの方は、余りいらっしゃらないだろうと思いますが、非常に暑いです。
無論エアコンはついているのですが、そもそも断熱性が低い。
折角、冷えた空気が出てきても、直ぐ暑くなります。
それよりも、外から薄い壁を通して伝わる熱で、部屋の壁側に居ようものなら、熱波が肌に張り付いて来るのです。
壁からジリジリ迫りくる熱気に堪えなくてはなりません。
そんな環境でも、診察を終え一息つくのは医局しかありません。
しかも厳しい暑さの中、更にエアコンを切る輩がいたのです。

都内某大学附属病院から毎日、交代で非常勤の先生が勤務していました。
大学病院での仕事は、忙しく大変です。
当直明けで更に勤務となれば、さぞかし辛いことでしょう。
医局でちょっと仮眠したくなるのは当然。
それは仕方ないことです。
しかし、困ったことに真夏の暑い最中、プレハブ小屋の中でエアコンを切って寝る。
これは、殆ど自殺行為です。
自ら熱中症で死を選ぶのは構いませんが、複数の人が利用する医局では大変迷惑します。
折角、エアコンをつけて出て行っても、帰ってきたらエアコン切って寝ているのです。
本当に、「このままだと死ぬぞ。」と思っても、寝ている人を起こす訳にも行きません。
疲れて眠っていることを知っていて、睡眠を妨げるのは無粋です。
結局、泣く泣くそっと耐え忍ぶしか選ぶ道がありませんでした。
白衣は脱いでも、それ以上脱いで裸になれば変質者扱いです。
しかし、仮に裸になったとしても、まだ暑いに違いありません。
何しろ、室温は32℃。
外気温と大差はないのです。
「そんなに暑いところが好きなら、医局の外で寝て欲しい。」
と言いたいところですが、それをお願いする訳にも行かず、鬱憤は募るばかりでした。

こんな環境のなかにいると、頭はボーとなりアクビが出始めます。
これはもう、熱中症の症状ではないのか。
真剣に生命の危機を感じました。

ところで、アクビはどうして出るのかご存知でしょうか。
疲れた時や眠いときにおこる動作ですが、不思議なことに詳しいメカニズムは良く分かっていないのです。
昔から、脳の酸素分圧が低下したときに起こる反射であると考えられていましたが、どうも酸素分圧の低下は観察されないため、最近はアクビの動作により脳の温度を下げているのではないかという考えが定着しています。

アクビの反射を司る中枢は、脳の視床下部にある室傍核という場所にあるのだそうです。
医学書院の医学大辞典にもアクビの頁があり、
視床下部室傍核(オキシトシン含有細胞を含む)が中枢と考えられている。視床下部室傍核から延髄の呼吸・循環中枢,唾液核,顔面神経核,脊髄などに投射し,呼吸・循環系,自律神経系,脊髄運動系の広汎な反応を引き起こす。
と記されています。
この視床下部の室傍核に刺激を与えた実験を、色々な研究者が行って来ました。

2010年頃の研究ですが、当時の東邦大学医学部生理学講座が行った研究によると、視床下部の室傍核にオレキシン(神経ペプチドのひとつで、摂食行動の制御因子であり、また覚醒の維持に重要な役割を担っていることが分かっています。因みに、比較的最近の睡眠導入剤には、オレキシン受容体拮抗薬という種類の薬が存在しています。)を投与してアクビを誘発し、この時同時に脳波をみると覚醒している時にみられる脳波が確認されるため、アクビによって脳は「覚醒」すると結論づけています。

実験を行った東邦大学医学部生理学講座の有田先生と鈴木先生は、アクビに「覚醒」と「警鐘」の二つの意味があると述べています。
確かに、眠たくなるとアクビが出るのは、脳を覚醒させる効果があるためだろうと思われます。
アクビをすると、少しスッキリしたような気がします。
人の話を聞いているときにアクビをするのは無礼だと思われますが、脳の覚醒効果から考えれば、一生懸命話しを聞こうとする態度だと褒められるべきなのかも知れません。
寧ろ、眠くなる話に問題があると言えるでしょう。
これを読んでいる方にも、既にアクビが出ているのではないかと心配しています。

もう一つの「警鐘」は、心筋梗塞や脳梗塞など循環器疾患でみられるアクビです。
脳の血流低下により起こるため、重大な事態への警告と考えられます。
同じ頃の研究ですが、ニューヨーク州立大学オネオンタ校のアンドリュー・ギャラップ准教授が行った実験では、ラットの脳に電極を埋め込み、脳の温度を測定したところ、温度が0.1度上昇するだけでアクビを誘発し、アクビをすると温度が0.4度低下したとの報告を行っています。
これからすると、脳のオーバーヒートを防ぐためアクビをしていると考えられるのです。
脳内にある温度が高くなった血液を脳の外へ排出し、相対的に低い温度の血液を脳へ送り込んでいるのではないかと説明されています。
脳へのダメージを防ぐために警鐘を鳴らし、同時にその対策として冷却を行っていると考えて良いのでしょう。
何れにせよ、視床下部室傍核に与えられた何らかの刺激(温度変化やグルタミン酸、神経ペプチドのオレキシンなど、最も有力な刺激は温度上昇)によってアクビを起こし、脳を冷却し、更に覚醒しようとすることは間違いないようです。

因みに、「欠伸」と書いてアクビと読みます。
もともと、「欠」だけでもアクビの意味があるそうです。
アクビをする時、手足を同時に伸ばす動作を「伸」で表し、一連の動作を「欠」と「伸」の二つ合わせて作られた当て字ではないかと考えられています。

このアクビに相当する動作は、殆どの動物で確認されるそうです。
アクビが非常に原始的な反応であると同時に、自らの生命を守るために必要とされている反応だということを表しています。

プレハブ小屋の医局で経験したアクビは、生命の危機に対する警鐘だったと考えられます。
もう少しで、危うく倒れるところでした。
「この怒りの捌け口はないものか。」と考え、怒りをノートに書き殴りました。
あまりにも汚い言葉ばかりなので、残念ながら公表できません。
その昔、昭和33年に、島倉千代子さんが歌ってヒットした「からたち日記」という歌謡曲がありました。
歌謡曲とは全く関係ありませんが、題名をもじって「腹立ち日記」という記録を残していた人物がいます。
釈明しておきますが、私ではありません。
役に立っていたかどうかは知りませんが、少なくともストレスの捌け口になっていたとは思われます。

茗荷の名前は週梨槃特と生姜から由来した

夏の定番は、枝豆と心太に冷奴。
暑い日は、冷たくノド越しの良い冷奴が最高です。
絹豆腐に薬味をたっぷり載せ、醤油を垂らしてツルリと。
薬味は葱や大葉、それに茗荷(ミョウガ)を添えれば、夏の香りが口から鼻へ抜けて行きます。
茗荷は料理の引き立て役として活躍しますが、どうして茗荷の名前は、このような字を書くのでしょうか。
ご存じの方も多いかと思いますが、落語の演目に茗荷のお話があるので、内容を掻い摘んでご紹介いたします。

お釈迦様の弟子で、半六(はんろく)さんと言う、大変物忘れの酷い方がいたそうです。
なにしろ、自分の名前まで忘れてしまう。
これをお釈迦様が哀れと思い、旗に大きく半六と書き、半六さんに背負わせました。
これなら、名前を忘れても大丈夫。
やがて、半六さんが亡くなり、半六さんのお墓から草が生えてきました。
その草を食べると、半六さんのように物忘れすると言われるようになったそうです。
そこで、この草を半六さんに因み、名を荷なうと書いて茗荷と呼ぶようになったというお話です。

実際、お釈迦様のお弟子の一人に、週梨槃特(しゅりはんどく)さんという大変物覚えの悪いお坊さんがいたそうです。
落語に登場する半六(はんろく)さんは、この週梨槃特(しゅりはんどく)さんの槃特(はんどく)から拝借した名前だと考えられます。
ウィキペディアで週梨槃特(しゅりはんどく)を検索すると、
パーリ語でチューラパンタカと発音するため、週梨槃特(しゅりはんどく)と漢字に当て字をしていると記されています。
パーリ語は、仏教の経典で主に使われている言語で、梵語(サンスクリット)に比べると俗語になるのだそうです。

週梨槃特(しゅりはんどく)さんは釈迦の弟子です。
最も頭の悪い人だったので愚路とも呼ばれたようですが、その名前の由来には、出生の経緯が関係しているようです。
週梨槃特(しゅりはんどく)さんの母親は裕福な家庭に育ちましたが、使用人と駆け落ちしました。
子を身籠り、お産のため一人で実家に帰る道中、出産してしまったのだそうです。
パーリ語のチューラパンタカのパンタカは路(みち)という意味があり、兄にあたる最初の子を摩訶槃特(大路)と名付け、弟にあたる後の子を周利槃特(小路)と名付けたということです。

兄の摩訶槃特(まかはんどく)さんは物覚えが良く、非常に優秀な人物でした。
兄は、物覚えの悪い弟の週梨槃特(しゅりはんどく)さんを釈迦の弟子に引き入れたものの、自分の名前も覚えられないほど頭が悪かったのです。
三年の修行で、ほんの僅かな経も覚えられなかった弟に対し、兄は遂に諦めて家に帰るよう言い渡しました。
これを嘆き悲しんでいた週梨槃特(しゅりはんどく)さんに、通りかかったお釈迦様がその理由を尋ねます。
愚かな自分を嘆いていたことを知ったお釈迦様は、
「自分が愚かだと知っていることは智者であり、自分の愚かさを知らない者が愚者なのです。」
と説いたそうです。
そして、ホウキを渡し「塵を払い、垢を除こう」といつも唱えながら、掃除をするように命じました。
素直な性格の週梨槃特(しゅりはんどく)さんは、それから毎日「塵を払い、垢を除こう」と一心に唱えながら掃除を続けたそうです。
何年もの月日が流れ、ある時ふと「塵を払い、垢を除こう」というのは単に見た目だけのことではなく、心の塵や垢を除くことなのであると気付くことになります。

余談ですが、赤塚不二夫先生の漫画、「天才バカボン」に登場する「レレレのおじさん」は週梨槃特(しゅりはんどく)さんがモデルになったのではないかとも言われています。

悟りを開いた週梨槃特(しゅりはんどく)さんがこの世を去った後、お墓の周りに生えてきた植物を週梨槃特(しゅりはんどく)さんの生まれ変わりとして、名札の名に草冠を、名札の荷物を持って廻っていたことから荷と書き、二つ合わせて茗荷(みょうが)と名付けたということです。

ウィキペディアによれば、茗荷は、ショウガ科ショウガ属の多年草で、学名をZingiber miogaというそうです。
つまり、生姜(しょうが)の仲間なのですね。
生姜と一緒に大陸から日本に持ち込まれ、その当時は香りの強い方を「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼び、これが後に、ショウガ・ミョウガに転訛したのではないかとの説が有力であると記述されています。
これからすると、週梨槃特(しゅりはんどく)さんが茗荷の由来になったお話は、何やら怪しくなってしまいます。
私が思うに、ミョウガの発音はウィキペディアで記されているように「妹香(めのか)」から転訛したもの。
茗荷の文字は、週梨槃特(しゅりはんどく)さんのお話をもとに、後から付けられたもの。
ではなかろうかと思っています。

茗荷を食べると物忘れするなど言いますが、もちろん根拠などある訳がありません。
しかし私は一寸、茗荷を食べ過ぎたかも知れないと感じています。
「こんな話、知ってるから面白くない」と仰る方には、もっとお召し上がり下さいますようお薦め致します。

夏バテには鰻

今年の夏は暑い。

夏は暑いものと決まっているのに、毎年のように「今年の夏は」と、さも今年に限って暑いかのように嘆くのは何故でしょう。
周囲の同意を確認し共感を得たいためか、または何処にも持って行きようもない暑さへの不満を自分に無理やり納得させるためのものか。
どちらにせよ私達の生活が豊かになると共に環境汚染は進み、地球温暖化の影響で夏は異常に暑くなる。
今やレジ袋の有料化となって、その見返りが目の前に現れました。
レジ袋が無くなれば全ての環境汚染が解決する訳ではありませんが、自然との調和や共存が進んで行かなければ、私達が生きていく場所もなくなることになります。

難しいことをアレコレ考えても、余計に暑苦しいだけです。
取り敢えず、部屋の中にいる時くらいはエアコンの恩恵にあずかり、涼しく過ごしたいもの。
しかし悲しいことに、一歩でも外へ出れば蒸し暑い。
家の内と外へ出入りを繰り返せば、次第に気怠くなり、食欲が落ち、気がつけば、口に入れるものは冷たいものばかり。
また追い打ちをかけるように、身体が更に重くなります。
これが俗に良く言う、「夏バテ」。
「夏バテ」はその呼び方から真夏だけのものと思われがちですが、気温や湿度の変化は真夏だけに限らず、梅雨や初夏にも起こり易いのです。

その原因は、
1:自律神経の乱れによる消化器機能の低下
2:食生活の乱れによる栄養不足
3:軽い熱中症や脱水傾向
などにあります。

「夏バテ」は、もともと「夏負け」と呼ばれていました。
「暑さ負け」と呼ばれることもあるそうですが、現在は「夏バテ」が最もスタンダードです。
電子辞書の医学大辞典で「夏バテ」を検索してみると、「夏負け」へと照会されます。
「夏負け」の解説をみると

夏期の高温多湿のために起きる易疲労,倦怠,食欲低下,体重減少などといった不快な身体症状をいう。

と記述されています。
更にまた、その予防には、

十分な睡眠,休養,食事摂取などが予防によいとされ,土用の丑の日にウナギを食べる習慣もその1つである。

とあります。
医学用語には、「夏バテ」や「夏負け」という病名はありません。
しかし、医学大辞典に「夏負け」の解説が用意され、その予防に土用の丑の日に鰻と記されているではありませんか。

確かに、鰻はビタミン豊富な食材と言えます。
夏バテの疲労回復には欠くことが出来ないビタミンB1、B2、B6が含まれており、特筆すべきは豊富なビタミンAの含有量です。
でも、鰻の旬は秋から冬。
皆さんご存知の通り、
夏場に売れ行きが悪い鰻屋から、何か良い知恵がないかと相談され、「平賀源内」が考案した有名なキャッチコピー。

「本日丑の日」
土用の丑の日うなぎの日
食すれば夏負けすることなし

これが、多大な影響を与えたことは間違いありません。
お気付きのように、このキャッチコピーには「夏負け」となっています。
「夏バテ」は暑さで疲れ果てるという意味合いから生まれた言葉であろうと考えられますが、「夏負け」は夏を人格化・擬人化し、夏に対しての勝敗を表していますね。
矢張り、「夏バテ」の方が誰でも理解しやすい表現だと感じます。

しかし、誰が一体どうして鰻を食べるようになったのか疑問に思うことがあります。
ヌルヌルした黒い蛇のような生き物を最初に食べようとした人は、人並み外れた好奇心を持った人だったのか、はたまた切実な空腹がその行動を決心させたのか。
もし、鰻を生で食べようものなら、腹痛や下痢で苦しみます。

厚生労働省のホームページでは、
ウナギの新鮮な血液を大量に飲んだ場合、下痢、嘔吐、皮膚の発疹、チアノーゼ、無気力症、不整脈、衰弱、感覚異常、麻痺、呼吸困難が引き起こされ、死亡することもあるといわれている。
と記述されています。

鰻の血液に「イクチオヘモトキシン」という毒があるためですが、普通に考えて鰻の血液を大量に飲むという行動はあり得ませんので、呼吸困難を起こして死に至ることは先ずないでしょう。
誤ったとしても、腹痛や下痢止まりです。
しかし非常に稀なケースとして、鰻でアナフィラキシーショックを起こした症例もあるそうです。
これは、「イクチオヘモトキシン」の毒とは関係なく、鰻のコラーゲンがアレルゲンとなった鰻アレルギーだったという症例報告です。
鰻によるアレルギーの報告は非常に少ないそうなので、これも心配するには及ばないでしょう。
「イクチオヘモトキシン」の毒は60.5℃の加熱で、その効力をなくします。
それにしても、最初に加熱して食べようと考えた人は偉いと思う。
危ものには火を通す。
人間が培った経験と対策による行動ですが、鰻に火を通して食べたことにより、偉大な食文化を後世に残したと言っても過言ではないでしょう。

鰻と言えば蒲焼き。
蒲焼きの語源は諸説ありますが、昔は鰻をぶつ切りにして竹串に刺し、それを焼いて食べていたそうです。
見た目が蒲(がま)の穂に似ていたので、「がま焼き」と言われ、それが蒲焼きに変わって行ったという説が最も有力です。
鰻の美味しさは、油の乗った鰻の身にありますが、タレにも美味しさの秘密があると考えられます。
良く言われる「秘伝のタレ」や、「継ぎ足し継ぎ足しの味」はタレに何か特別な秘密を込めたもの?
何処のお店も基本的にタレは醤油や味醂(みりん)、水飴、調味料などで、内容は殆ど変わらないのでしょうが、その店ならではの味は何か特有な配合や隠し味が潜んでいるのかも知れません。
長年に渡り染み込んだ鰻の脂も、タレに旨味を加え、味に厚みを出しているのでしょう。
ご存知のように、和食はユネスコ世界文化遺産として認定されています。
日本に醤油があればこそ生まれた、奇跡とも言える食べ物かも知れません。

鰻の稚魚が少なくなり、次第に庶民の味から遠ざかっていますが、今年の稚魚は大漁という知らせを聞きました。
美味しい鰻を、いつもより少しお安く戴けるかも知れません。
それを楽しみに、今から「夏バテ」しないよう気を付けましょう。

実際にあった不思議な体験は磁覚の覚醒によるものか

世の中に、奇妙な体験話は掃いて捨てるほどあります。
誰でも一つは、奇妙な体験をしている筈です。
何故なのか、今考えても分からない奇妙な経験が私にもあります。

私がまだ小さい頃、家の手伝いをして貰っていたお婆さんがいました。
お婆さんは、遠い縁故にあたり、小さい私の面倒を良くみて貰っていました。
私は中学生になると、片田舎にある実家を出て、実家から数百キロほど離れた他県の市内に下宿を始めました。
小さい頃、お世話になっていたお婆ちゃんは、その頃すでに実家の手伝いを止め、実家から百キロほど離れた北九州市内にある自分の家に戻っていました。
その家には、私が小学生低学年の頃、たった一度だけ連れて行って貰ったことがあります。
中学生の夏休み、何故か不意に一人で行ってみようと思いたちました。
田舎とは言え、百万都市(現在96万)の北九州市です。
一度行ったことはあるものの、住所は小倉区までしか知りません。
加えて、方向音痴です。
辺りの様子は、何となく薄っすらとした記憶が残っていましたが、同じような風景は世の中に沢山あります。
たったそれだけの情報で、行き着く訳がありません。
しかし、どうしたことかフラフラと道中分からないまま、目的地まで辿り着いてしまったのです。
確かこんな処だったような気がするなと、暗い路地の奥へ。
一寸、暗くて怖かったのですが、恐る恐る入って行き、何度か「すみませ~ん、誰かいますか~。」と叫んでみました。
すると、暗い家の中から、お婆ちゃんがゆっくりと出て来るではありませんか。
随分と年老いて身体が曲がり、脚が不自由そうに見えました。
この時、既に80代だったと思います。
私が来たことを、大変喜んでくれました。
しかし折角、遠い処まで来たにもかかわらず、何故か長居することなく帰りました。

それから間もなく、お婆ちゃんの訃報を耳にしました。
「死ぬ前、呼ばれたのだろうか。」
「もしかすると、これは虫の知らせか」。
その時ふと、自分にはそのように感じました。
亡くなる直前、会いに行こうと思い立ったのは、単に偶然かも知れません。
しかし、住所も知らない場所へ迷うことなく一人で行くことが出来たのは、偶然では説明できないほど不思議な話です。
世の中には、理屈では説明出来ない、何か目に見えない力が働いていると感じるときが稀にあります。

因みに「虫の知らせ」は、道教の教えに由来するそうです。
道教では、戒めとして、身体の中に3匹の虫「三尸(サンシと言うそうです)」が棲んでいるとの教えがあります。
年に6回(およそ60日に1回)の頻度でおとずれる庚申の日の夜、三尸の虫は人が眠っている隙きをみて身体から抜け出し、上帝に罪を告げるのだそうです
更に、その罪の重さによって、告げ口された人の命が縮まって仕舞うというから、怖くて庚申の夜は眠れません。
広辞苑によると庚申の夜、仏家では帝釈天や青面金剛を祀り、新道では猿田彦を祀って徹夜する習慣を庚申待と言い、平安時代に伝わり、江戸時代に流行ったと記載されています。
平安時代には、貴族が庚申の日に寝ないで一晩中起きて過ごすという習慣があったようです。
江戸時代になると庶民の間でもこれが流行し、落語にも取り上げられています。
上方落語に「宿屋仇」と言う演目があり、5代目の古今亭志ん生さんは、これを「庚申待」という演目として披露していたようです。
落語の演目になるほど「庚申待」の風習は、江戸時代に定着していたのでしょう。
「腹の虫」や「虫が好かない」など、日常で良く用いられる表現は、身体の中に虫がいることを前提として生まれたのではないかと考えられます。
「虫の知らせ」も同じ理屈で、説明がつかない現象の理由を、身体の中にいる虫に押し付け、無理やり自分を納得させているのです。

同じようなことを表現する言葉に、第六感というものがあります。
第六感は視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感以外の知覚で、予知能力や霊感など、理屈では説明できない能力として扱われます。
一般的に、直感と同じ意味で用いられることが多く、その人の経験的な積み重ねから得られた予測能力ではないかと私は考えます。
しかし、鳥や蜂などと同じように、磁気(地磁気)を感じる能力が人にもあるのではないかという研究結果が、2019年3月、東京大学やカルフォルニア工科大学などの共同研究チームからeNeuroという科学雑誌に発表されています。
「地磁気と同等の強度で方向が変化する人工的な磁気刺激をヒトに与えると、その方向の変化を識別し、脳波が異なる反応を示した」という研究結果です。
地球のS極N極を取り巻く地磁気を遮断した室内で、様々な人種で異なる年齢の被験者を数十人集め、地磁気と同じ程度の強さの磁気で刺激する実験を行っています。
その結果、磁気の向きに応じ、脳波が無意識に異なった反応を示したということです。
このことから、人間は地磁気を漠然と感じる能力があるのではないかと考察しています。

もし、磁覚というものが存在するとすれば、これが第六感ということになります。
中学生の時に「虫の知らせ」でフラフラ遠く離れた場所に行き着いたのは、突如として磁覚が覚醒し、強力なナビゲーション機能が発揮された可能性も考えられるでしょう。

超常現象の肯定論者でも、否定論者でもありません。
実際にあった不思議な経験ですが、世の中には未だ良く解っていないことが沢山あるのだろうと思っています。

「元の木阿弥」の由来 木阿弥について思ったこと

「元の木阿弥」の謂れをご存知でしょうか。
木阿弥とは、人の名前だそうです。
天文19年(1550年)ごろ、戦国時代のお話です。
奈良、大和郡山の城主だった筒井順昭(つついじゅんしょう)は、息子の順慶(じゅんけい)がまだ幼かった時に病死しました。
幼かった息子を庇うため、逝去を隠すように遺言をしていました。
順昭の替え玉として、声が似ていた木阿弥という盲人の僧を招聘し、寝室に寝かせて訪問者を欺いていたそうです。
順慶が成人した後、順昭の逝去を公表しましたが、木阿弥は用済みとなってしまい、ニセ城主の生活から元の身分に戻ったというお話です。

これは、史実かどうか不明ですので、決して鵜呑みにしないようにお願いします。
ここでは、木阿弥が実在し、隠密に仕事を遂行したと仮に設定して、木阿弥の立場に近づいて、感じたことを述べています。

努力が実らず、振り出しへ戻る意味で良く使われている故事成句ですが、図らずも木阿弥は後世へ名を残すことになりました。
木阿弥は、どのような思いで城主に成り済ましたのでしょうか。
人に利用され、権力のもとで他人に成り済まし、刺客に怯え、一歩間違えれば敵はもとより味方から殺されるかも知れない。
厳重な健康管理と生活の制限を受け、家族とも合うことは禁じられていたに違いありません。
城主の遺言に従わなければ、更にまた違った意味で、身の危険に晒されることになるでしょう。
しかし、当時の状況から想像すると、命令に従わざるを得ません。

ただ単に、城主と声が似ていたというだけの理由で、木阿弥に白羽の矢が立ったことになります。
若し、何かの巡り合わせで依頼を受けたとしても、その役を演じるだけの才能と度胸がなければ、大役を成し遂げることは出来ません。
少なくとも、木阿弥は大役を演じ切った訳です。
良いか悪いかは別にして、自分の意思とは関係なく、図らずも有名になってしまいました。
意思に関わらず名を残す者、対して大多数の名もなき凡人との差は、一体どのようなものがあるのでしょうか。

もちろん、人から期待を受けるためには、何か魅力がなければなりません。
もしかすると自分の魅力は、気が付かないだけで、人から見れば価値があるものを、人それぞれ持っている可能性があります。
木阿弥の声が、眞にそれです。
自分には当たり前だと思えるものが、一部の人にだけ価値を持っていた訳です。

しかし、人から何かの価値を見出して貰ったとしても、更にもう一つの条件があります。
依頼を受け入れるだけの、懐が自分にあるか否かの違いです。
誰でも、危険から逃れようとします。
しかし、木阿弥の場合、逃れようとしても逃れない状態であったことは違いありません。
ここでは一般論になりますが、要は「リスクをどこまで背負うことが出来るか」という許容範囲を指しています。

言うまでもなく、リスクが無いものは見返りがなく、逆に大きな期待には、大抵の場合、大きなリスクが付き纏うものです。
そのようなリスクに対し、自分が許容する閾値を何処に置いているかの違いだと言えるでしょう。
自分の身に危険が及ぶような依頼を引き受ける人は、先ずいません。
若し居るとすれば、かなり危険に対して鈍感な人でしょう。
物事を成し遂げる人には、発想力や注意力、行動力、忍耐力などが必要です。
しかし、鈍感という資質は、努力しても決して得ることが出来ません。
そのような意味からすると、「天然の鈍感さ」という才能が、最も重要なのかも知れません。

役目を終えた木阿弥は、故郷で家族と共に安楽な余生を過ごしたと言われています。
戦国時代、城主の「影武者」を立てることは良くある話です。
この説話は嘘かも知れませんが、木阿弥を影武者として起用したという話は、何となく納得し易い理由になるかも知れません。
しかし、一般的に政治的な陰謀や策略に翻弄された人の末路は、闇に葬られて仕舞うものです。

役割を終えた木阿弥が、若し生きていなければ「元の木阿弥」という故事成句も無かったことになります。
元の生活に戻れたということは、仮にそれが史実であれば、手厚く抱えられに違いありません。

アベノミクスで築いた虚構の繁栄は、新コロナウイルス感染症という思わぬ伏兵で、見事に崩れ落ちました。
「元の木阿弥」レベルではなく、これから世界的な大恐慌へと更に転落して行くシナリオが容易に想像できます。

ウイルスという目に見えない敵は、別け隔てのない試練です。
この局面を、乗り切るために私達は何をすべきでしょうか。
盲目の木阿弥が与えられた役を果たしたように、私達は自身に与えられた役を今は唯、直向きに務めて行くのみであろうと思っています。

実際に木阿弥が居たかどうかは分かりませんが、木阿弥の存在を前提に、思いを馳せてみました。

恵比寿講とべったら漬け 神無月に恵比寿様は地元に残る

恵比寿様は五穀豊穣の神様です。
毎年、10月20日に一年の無事を感謝し、五穀豊穣を祈る恵比寿講が各地の恵比寿神社で執り行われます。
旧暦の10月20日は、今の暦に直すと、本来は11月中旬にあたります。
なかでも有名な恵比寿講は、日本橋宝田恵比寿神社の「べったら市」。
起源は、江戸時代中期だと言われます。
恵比寿講に合わせ、地域住民は親戚知人を招いていたようです。
この時、客人をもてなすため、魚や野菜、神棚などが露天で売られ、門前市が立っていたと言われています。

それでは、どうして恵比寿講が「べったら市」と呼ばれるようになったのでしょうか。
その謂われについて、一寸調べてみました。
先ず、「べったら」という名前の由来ですが、「べったら」は、大根を浅く塩漬けにし、米麹の床に漬け込んだものです。
米麹に甘酒や砂糖、飴など糖分を加えて作られているため、漬け物なのに甘く、表面はベタベタしています。
露天商の売り子がふざけて、 「ほら、買わずに通ると着物にくっつくよ」 「べったらだ~ べったらだ~」 と着物の袖に付け、からかったことから「べったら漬け」の名前になってしまったそうです。

今では到底、考えられません。
そんな事を遣ったら、通報ものです。
若し、着物に食べ物を故意に付けようものなら、それこそ犯罪です。
江戸時代、そんな戯れは普通の感覚だったのでしょうか。
一歩間違えば、冤罪でも獄門、晒し首の時代だったということは、それだけ下々の秩序は保たれていなかったと考えて良いのでしょう。

大根を干さずに漬け込むため、沢庵とは違い水分が多く、シャキッとした歯触りが特徴です。
江戸時代、甘いものが少ないため大変人気を博し、次第に「べったら漬け」を売る店が多くなったと考えられています。
その「べったら漬け」が、日本橋の恵比寿講で良く売られて名物となり、そのまま「べったら市」と呼ばれるようになったと言われています。

宝田恵比寿神社のご神体は、恵比寿様。
鎌倉時代の名匠、運慶の作と伝えられています。
残念ながら、拝見したことはありません。

10月(神無月)は全国の神様方が出雲へお出掛けになるので、恵比寿様もお留守とばかり思っていました。
しかし、恵比寿様は御祭神なので地元に残って居られるそうです。

10月(神無月)、八百万の神々が出雲大社へお集まりになるには、それなりの理由があります。
10月16日が伊邪那美命(イザナミ)のご命日なので皆集い、そこで男女の縁結びを話し合うためと言われています。
しかし、母の命日に息子が出席しないようであれば物議を醸すことでしょう。

恵比寿様の生い立ちは、伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の間に生まれた蛭子命(ヒルコノミコト)が未熟な子だったため、葦舟に乗せられ沖へ流されたというお話が古事記に登場します。
どのような経緯で変化したのか分かりませんが、後になって蛭子は恵比寿へ、縁起の良い字に当て替えられたと言うことです。

欠席の理由が若し生い立ちにあるとすれば、それはそれとして何となく理解出来なくもありません。
しかし、手前勝手な解釈ですので、決して鵜呑みになさらないようお願い致します。
何しろ、神話の世界ですから。

ハレー彗星の思い出 望遠鏡で観察した電球

ハレー彗星をご存知でしょうか。
76年に1回の周期で、地球に大接近する軌道を持っており、最も接近する時期には、その特徴的な長い尾が肉眼でも確認できると言われています。
極端に細長い楕円形の軌道をもち、地球の公転とは逆回転で太陽を公転しているそうです。
太陽からもっとも離れる地点は海王星の軌道よりも外側になるというので、地球へ近づく周期が長いのも分かります。
氷と岩石と塵が固まったもので、太陽に近づいて来ると熱で氷が溶け、溶けたガスや塵が放出され、このガスや塵が太陽風に煽られて、地球から見ると尾を引いているように見えるそうです。
彗星の核となる塊の大きさは、凡そ8km×8km×16km位。
瓢箪のような形をしているということです。
前回、地球に大接近した年は1986年2月でした。
今から逆上ること、30年以上前のお話です。

一生に一度、見るか否かの天体ショー。
少しでも彗星を見てみたいと誰もが願い、望遠鏡が良く売れたようです。
例外に漏れず、私もそうでした。
何しろ、一生に一度のことです。
高性能で、低価格な望遠鏡を調べに調べ、手に入れました。
地球へ最も近づき、日本でも良く観察できると予想される時期を待ちました。
寒い最中、街の光が少ない山の中へ。
満を持して、家族と一緒にハレー彗星観察の旅へと出掛けたのです。

寒い時期でしたが、天体観測には空気が澄んだ冬場の方が適しています。
先ず、望遠鏡の組み立てから開始。
見栄えの良い望遠鏡が仇になり、思っていたよりも難航しました。
説明書を見ながら格闘すること小1時間。
何処か噛み合っていない部分があるのでしょう、少しガタ付くものの、何とか完成しました。
さて、いよいよ彗星の観察。
しかし、何処を見渡しても、それと思わしき星がありません。

長い光の尾を持ったホウキ星。
「う~ん、アレかな~? アッ、コレかな~?」
小さな光を見付けては望遠鏡を向けてみますが、どれも違う。
「肉眼でも見えんじゃないの?」
家内が苛立ちを口にし始めます。
しかし、無いものは仕方ない。
「高いところより、少し低いところに見えるみたいよ。」
家内の指導が入ります。
隈無く夜空を観察していると、何やら小さな光の点が。
「あっ、これじゃない!」
薄っすらとした光に望遠鏡を向けると、丸い光が見えるではありませんか。
「見た~い、早く見せて。」
子供達にせがまれ、交代します。
「何かコレ、まん丸くて尾っぽがない。」
「そう? ちょっと代わって。」
良く焦点を合わせてみると、それは山の峰にポツリと灯された電球でした。
「今日は、尾っぽが出ない日かもね。」
夜も更け、子供達には申し訳ないが、望遠鏡で電球を観察して貰うしかありませんでした。

その時以来、望遠鏡の活躍はなく、部屋に飾られたままになりました。
その後、物置へ移動。
何時からか分かりませんが、我が家から姿を消しました。

言い逃れになるかも知れませんが、1986年に地球へ接近したハレー彗星を調べてみると、地球との位置関係で、北半球では特に観測が難しかったのだそうです。
素人がいくら頑張っても、恐らく見ることが出来なかったのでしょう。
天体望遠鏡を手にした、多くの人々が悔しい思いをしたに違いありません。
しかし、あの騒ぎは一体何だったのか。
マスコミも悪いが、それに乗って浮かれた自分も悪い。
次回、地球に最接近するのは、2061年夏頃。
その時、再び世の中が浮かれ騒ぐのでしょう。
あと40年以上も先のお話なので、私にはもう関係がありません。

ノーモアヒロシマ 緊張の英会話

8月6日は、広島の原爆投下日。
ご存知のように1945年の夏、今から遡ること70年以上前、広島に原爆が投下され、56万人の尊い命が一瞬で失われました。
これからお話することは、実際にあったお話です。
不謹慎だと思われる方がいらっしゃるようであれば、どうかお許し下さい。

日本の敗戦まで、敵国の言葉は教育されることなく、私の義母は横文字が苦手です。
私の子供が小学校低学年のころ、子供達と義父、義母と私夫婦を含め、家族でアメリカ人の英語教師から、英会話を週1回ほど習っていた時期があります。
40歳代後半の、大らかで体格の良い御婦人でした。
日常英会話の初歩の初歩ですが、何しろ遅々として前に進まない。
毎回、いつも同じことを繰り返していたように思います。

ある日、英語の先生が「No more」をテーマにレッスンを始めました。
「No more」を使って、何か会話しなくてはならないのです。
義母の順番になりましたが、考え込んで中々言葉が出てきません。
「う~ん、ノーモア、ノーモア・・・」
暫く沈黙があって後、何を閃いたか急に目を輝かせました。
口から衝いて出た言葉は、
「ノーモア 広島」
満面に笑みを浮かべながら言うのです。
本人は、為て遣ったりという思いでしょう。
もちろん、「No more」で思いつく言葉が、それしかなかったのです。

言われたアメリカ人も、びっくりです。
驚きと困惑の顔を隠せませんでした。
また、暫くの沈黙があり、やおら笑みを浮かべながら、ゆっくり
「Remember Pearl Harbor」
と答えたのです。
どうして良いか分からず、その場はもう笑うしかありませんでした。

決して消すことが出来ない、悲しい歴史があります。
稚拙な英会話レッスンでなければ、相手を攻める遣り取りです。
しかし、長い年月を経て今、互いに辛い過去を言える時代になったのであろうと理解しています。

悲しい夏の思い出 消えた麦わら帽子

学生さん達は、夏休みに入りました。
小中学校の周りから、一斉に子供達がいなくなります。
海や山へ、家族と旅行に出掛けたり、部活で合宿したり、試合で遠征したり。
そして、夏休みには、色んな思い出が残ります。

小学5年生の夏休みでした。
北九州の大学へ通っている姉の下宿先へ、遊びに行った時のお話です。
プレゼントで、麦わら帽子を買って貰いました。
普通の麦わら帽子ではなく、ちょっと小洒落たタイプ。
良家のご子息、御用達のような格好の帽子でした。
私はとても気に入り、買って貰ったその日は、枕元に置いて寝たほどです。

翌日、姉と一緒に北九州市八幡区にある皿倉山へ出掛けました。
標高は600mほど。
頂上には電波塔があり、ケーブルカーで登ることが出来ます。
山頂の周辺は遊歩道が整備され、一寸した観光スポットです。
当日、天気は晴れ。
夏らしく、蒸し暑い日でした。
山の裾から吹きあげる風が、時折、清涼を運んで来ます。
暑さを凌ぐため買って貰ったアイス片手に、日陰の椅子に腰掛けました。
洋服を汚さないよう襟元を抑えて食べていたその時、激しい突風に襲われたのです。
私の帽子は風に乗り、遥か彼方。
山中の森へ消えて行きました。

「 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へ行く道で、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、僕はあの時随分悔しかった。
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 」

ご存じない方もいらっしゃるかと思いますが、1977年に制作のされた映画、「人間の証明」に出て来る有名なフレーズです。
この一節は、西條八十詩集のなかに収められた「僕の帽子」から小説に採用されています。
「人間の証明」は、森村誠一さんの長編推理小説で、翌年にはテレビでドラマ化されました。
連続ドラマでしたが、毎回、高視聴率を誇ったテレビドラマです。

ニューヨークから来た黒人青年ジョニーが、高層ホテルのエレベーターで胸をナイフで刺されたまま死亡し、事件から始まります。
刑事は、ジョニーをホテルへ送ったタクシー運転手の証言から、ジョニーが「ストウハ」と言っていたことを聞き出します。
タクシーには、「西條八十詩集」の古本が残されていました。
更に、ジョニーがニューヨークから日本へ出発する際、「キスミー」と言い残していたとの情報を聞き込みます。
刑事は、西條八十詩集のなかに収められている「僕の帽子」の一文から、「キスミー」とは、栃木県にある霧積温泉のことではないかと考えます。
更に、現場の高層ホテル(ホテル ニューオータニ)最上階にある展望レストランの丸い外観が、ジョニーにはストローハット「麦わら帽子」にみえたのだろうと推測するのです。

ドラマは、複雑に話が絡み合い進行しますが、フレーズに関係ありそうな部分だけ、ストーリーを掻い摘んでみました。
作中に登場する西條八十の詩、「僕の帽子」を紹介します。

ぼくの帽子

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。

西條八十の詩、「僕の帽子」より

買ったばかりの、帽子は遂に見つかりませんでした。
夏休みのイメージは、映画のフレーズと映像が重なる、悲しい思い出です。

恐れ入谷の鬼子母神 朝顔の種には毒がある

「 恐れ入り谷の鬼子母神 」
フーテンの寅さんでお馴染み、如何にも江戸っ子らしい地口です。
( 地口とは、地名を入れたダジャレのことを言います )

入谷の鬼子母神とは眞源寺。
毎年七月には朝顔市で賑わいます。
地口で語られるほど有名なお寺ですが、予想と反して境内は小さく、初めてお出でになった方は少し拍子抜けするかも知れません。
失礼な言い方かもしれませんが、私はそんな感じでした。
申し訳ありません。

ところで、朝顔の種は漢方薬として利用されます。
生薬名で「牽牛子:ケンゴシ」と言い、緩下剤として便秘に使われるようです。
種を食べることはないでしょうが、小さな子供は何でも口にします。
私も小さい頃、朝顔の種を噛みました。
下痢したかどうか覚えていませんが、お腹が痛くなった記憶があります。
小さなお子さんがいらっしゃるご家庭で、朝顔を育てる時には、お気を付け下さい。
毒があり、激しい腹痛や下痢を起こします。

牽牛子の牽牛(ケンギュウ)は、七夕でご存知の彦星。
今年の七夕も雨でした。
旧暦の七夕は一ヶ月ほど先です。
新暦となった明治以降、七夕は梅雨。
彦星と織姫の再会は、難易度が高くなって仕舞いました。
偶然にしか合えないことが、また儚くて良いのかも知れません。

「 恐れ入り谷の鬼子母神 」
地口の作者は、大田南畝(蜀山人)。
これには先があり、「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」と続いているそうです。
水天宮は、日本橋蛎殻町にある神社で、福岡県久留米市にある水天宮の分社。
昔、蛎殻町に有馬藩のお屋敷があり、そこへ分社をお祀りしたものが今の水天宮です。
お祖師様とは、杉並区堀之内にある妙法寺のことだそうです。
「そんな話あ、とっくに知ってっから面白くもねえ。」とおっしゃる方へ。
こりゃまた、恐れ入り谷の鬼子母神。

紫陽花の奇妙な風習

梅雨の時期に入りました。
この時期、一斉に紫陽花(あじさい)が咲き始めます。
地方によっては紫陽花を軒先に吊るし、金運招来や魔除けのお守りにするそうです。

昔から金運招来を願い、蜂の巣を軒先へ吊るす慣わしがあったようです。
形が蜂の巣に似ていたため、紫陽花が代わりに使われたのではないかといわれています。
紫陽花は、他人の家から取ってきたものを吊るす。
愛知県蒲郡市の紫陽花、寺補陀寺(ぼだじ)周辺で行われていた風習です。
その当時の補陀寺は、今のように沢山、紫陽花はなかったそうです。
誰でも勝手に取っても良いように、住職が境内に紫陽花を植えたと言い伝えられてます。

六月の六の付く日に軒先へ吊るす。
数字に何の意味を持つのか分かりません。
盗んだ紫陽花を半紙に包み、軒先へ逆さに吊るすそうです。
その背徳行為が心願成就への道だと、何となく信じたくなるのかも知れません。
何時から誰が始めたか分かりませんが、何とも奇妙な風習です。

「 紫陽花や 昨日の誠 今日の嘘 」 

正岡子規の俳句です。
紫陽花は、青に見えたり紫に見えたり。
花は同じでも、咲く場所や時期によって色が変わります。
青でもなく紫でもない。
名前では呼べない微妙な色合いや移ろいは、何か悲しい秘密があるかのようです。

移ろい易く定まらないのは、人もまた同じです。
時間と共に移ろい、場所に合わせて移ろう。
偶然にせよ必然にせよ、それが人の弱さであり、逆にまた強さなのでしょう。
たとえ移ろうことがあろうとも、与えられた環境で生きてゆく。
真に強い人とは、そういう人を指すのかも知れません。
道脇の紫陽花を眺め、そんなことを思いました。

屋久島での野営はスコールに注意 一瞬の睡魔が危機を招くトロッコ列車

屋久島は亜熱帯の気候です。
南国に特有のスコールがあります。
激しい豪雨が観光客を襲った今回の雨は、非常に短時間の大雨でした。
幸い、孤立した300名を超える観光客が無事救出されましたが、本当に怖かったと思います。
5月一ヶ月分に相当する雨が1日で一度に降れば、災害にならない訳がありません。
私も昔、屋久島で大雨にあったことがあります。
屋久島が世界遺産に登録される遥か昔。
高校生になった最初の夏休み、屋久島へ友人と出かけたときのお話です。

屋久島は言わずと知れた世界遺産。
今も太古から続く自然を残す、貴重な島だと思います。
私が高校1年生の夏。
中学からの仲間5人で旅行を計画しました。
この時、どうして屋久島だったのか分かりません。
旅行の資金もなく、貯めた小遣いを全額はたいて費用にあてました。
その頃の持っていた金と言っても数万円。
精々、5~6万円位だったでしょうか。
一番大きな出費は、行き帰りのフェリー料金。
全行程3泊4日の内、宿泊費も飲食費も行き当たりばったり。
何とかなると思って出掛けるのが若さ故です。
宿泊は野営するのが安上がりだと考え、テントを持って行きました。

問題は野営の場所がないことです。
フェリーが着く港、安房町にお願いし、夏休みで使っていない小学校の運動場を借りることが出来ました。
慣れないテント張りで、1~2時間ほど費やし、取り敢えずガタガタのテントが完成。
今どきのテントは簡単に作れるように工夫されていますが、当時のテントは組み立てが大変でした。
夕食は店で食べる余裕もなく、疲れた身体で仕方なくインスタントラーメンを作り、食べた記憶があります。
もう後は寝るだけ。
その時、ぽつぽつ雨が降って来ました。
「少しすれば止むだろう」と思っていましたが、次第に雨は強くなるばかり。
亜熱帯特有のスコールです。
雨足は次第に強くなり、バケツを引っくり返したような豪雨となりました。
それはもう、半端な雨量ではありませんでした。
雨の重さでテントの天井が膨らみ、次第に下がってきます。
グニャリとたわむテントの中で、「何とか止んでくれ。」と祈り続けましたが、止む訳がありません。
哀れテントは全壊。
夜中に全員ズブ濡れとなりました。

途方に暮れ、一体これから如何すると悩んだ挙げ句、地元の方に頼ってみることにしました。
すると、夜中にも拘らず、小学校の校舎を開放して下さったのです。
この時は、本当に助かりました。
今から思えば、無茶なことをする迷惑な若者だと思われていたに違いありません。

翌日、天気は晴れ。
昨晩、酷い目に会い、休息は取れていませんでした。
しかし、今回の目的は、宮之浦岳へ登ること。
朝から眠くて重い身体を奮い立たせ、気合を入れることから始まりました。

宮之浦岳の標高は1936m。
九州の最高峰の山です。
泊まらせて戴いた小学校は港町なので、海抜0mからの出発です。
常識的に考え、簡単に行って帰ってくることは難しいのです。
しかし、何も考えずに行動するのが若さの特権。
現在のように整備されてはいませんでしたが、綺麗な林道を汗だくになりながら登って行きました。

ミストサウナのように蒸し蒸しとした空気のなか、苔生した道脇のあちらこちらから、湧水が流れ出しています。
喉を潤すための水には、苦労した記憶が全くありません。
しかし、その日も繰り返し短いスコールが訪れます。
林芙美子の「浮雲」には、「屋久島は月のうち35日は雨」という有名な一節があります。
宮之浦岳山頂が見える日は、年に数度あるかないか。
これが、世界遺産を育んだ環境なのでしょう。

濡れては乾きを繰り返しながら更に登って行くと、屋久杉の林を通り、やがて有名な縄文杉やウィルソン株、大王杉などを間近にみることが出来ました。
若い時の感激は、いつまで経っても忘れることがありません。
勢いだけで登って来たものの、昨晩は殆ど寝ていないため、既に疲労は限界に達していました。
もうこれ以上は無理だと判断し、皆と話し合いの結果、下山することを決断しました。

フラフラになりながら林道を歩いていました。
すると突然、「乗るか?」とトロッコの運転手さんが声を掛けてくれたのです。
当時、屋久杉の伐採はもう禁止されていましたが、運搬用のトロッコは偶然にも動いていました。
渡りに船とばかり、「はい、お願いします!」と即答。
荷台には、沢山の廃材などの荷物があり、乗り込む場所がありません。
台車のステップに足を乗せ、必死に荷物の固定柱にしがみ付きました。
それでも、「これで帰れる。」と思うと、嬉しいやら有難いやら。
トロッコが走り出すと、爽やかな風が身体に心地よく、生き返ったように感じました。
心地良いと同時に、安心と疲労で眠たくなって仕舞ったのです。

「オイ、兄ちゃん!」と呼ぶ声に「ハッ」と気が付きました。
一瞬、寝ていたのです。
必死に支柱を掴んでいた両手の指は次第に緩み、開いて離れる寸前でした。
荷物も人も満杯。
過積載で脱線しないとも限りません。
しかも、下りのトロッコは結構なスピードです。
走っているトロッコから落ちたら、怪我では済まなかったかも知れません。
「よく落ちなかったな。」と今でも思い出すたび、背筋が寒くなります。

若しかすると、無茶な若者が事故を起こさないよう、地元の方々が遠巻きに見守っていたのかも知れません。
災害救助には至りませんでしたが、地元の方々のご厚意がなければ、無事に帰って来ることは出来なかったでしょう。
もう今は昔の話となりましたが、当時お世話になった方々には大変感謝しています。

車の運転は危険が一杯 穏やかな運転を心掛けましょう

令和で最初のゴールデンウイークは、史上最も長い超大型連休でした。
休暇を利用し、お出掛けの方も多かったのではないでしょうか。
最近、「逆走」や「あおり運転」の報道を良く耳にします。
危険な運転は自らの不幸だけでなく、周りも不幸にします。
車を運転する際は、安全で穏やかな運転を心掛けましょう。

昔、こんな事がありました。
車で旅行に行き、地方の町で道を尋ねた時のことです。
「そちらの方向に私も行くので、後に付いて来て下さい。」と。
優しい方に道を尋ねて良かったと思いながら、前の車を見失うことがないように一生懸命後を走りました。
しかし、走り屋さんなのか、案内して貰っている割にはスピードが速い。
アッと言う間に、引き離されて仕舞います。
折角の親切を、こちらの不手際で仇にするわけには行きません。
必死になって後を走ること10分。
急に案内していた車が止まりました。
案内はここまでなのだろうと思い、お礼の挨拶をしようと車を降りた途端。
「いつまで付いて来んだよ! 一体、どういう積りかよ!」と怒鳴るのです。
狐に摘まれたようです。
何を怒っているのか分からず、面食らって仕舞いました。
「親切な人だと思っていたのに、一寸可怪しい人だったのか。参ったな、どうしよう。」
危険を回避する手段をあれこれ考えながら、怒られた理由を聞いてみました。
その方の案内した地点は数キロ前に過ぎ、それを知らず無為に数キロ、後を追っていたようです。
こちらは全く分からず、必死に後を追いかけていた訳ですが、案内した方にとっては、いつまでも追いかけ回す、気持ちの悪い奴だったに違いありません。
もちろん、「あおり運転」などする積りはありませんが、案内して下さった親切な方は「あおり運転」されたと思っていたのかも知れません。

「あおり運転」に限らず、車の運転をなさる方は、大なり小なり危険を感じた経験をお持ちではないかと思います。
今でも思い出す、危ない瞬間が昔ありました。
数十年も前の話になります。
実家の片田舎に、電車線路と町道が交差する場所がありました。
線路と道路の高低差があるため、踏切ではなく、線路下の短いトンネルを道路が通過する仕組みになっています。
トンネルの幅は5mあるかどうか。
片方の車が通過する際には、対向車はトンネルの手前で待っていなければなりません。
それが暗黙のルールでした。
家内の実家で車を借り、用事を済ませた後、車を返却に向かっていた時のお話です。

周りは既に薄暗く、ライトを点灯していたと思います。
車を返す時間が遅くなり、気持ちは焦っていました。
程なく例のトンネルに差し掛かりましたが、運悪く対向車が全く同じタイミングで来たのです。
お互い、トンネルまで殆ど同じ距離でした。
当然、どちらか止まって譲るべき状況です。
しかし、こちらは時間が気になり焦っていました。
向こうが止まってくれるだろうと信じ、そのままトンネルへ。
ところが、対向車も止まらず、お互い競うようにトンネルへ。
左の視界に、「キャーッ!」という声と、手で顔を覆う家内の様子が。
右の視界には、何も見えなくなる程、白く眩しく光る対向車のライトが。
「ワッ衝突した!」と思った瞬間、トンネルの向こうへ出ていました。

そのトンネルに車が二台並ぶと、隙間がありません。
二台の車が互いに走行しながらすれ違う事が出来たのは、夢だったのか。
奇跡的に偶々、偶然が重なり、無事に通過出来たのでしょう。
若しかすると、それまでの自分はそこで終わり、そこから同時に、また別の時間が始まったのかも知れないと今でも思うことがあります。

楽しい思い出を残すためにも、車でお出掛けの方は呉々もお気を付け下さい。

遣ってはいけない代返依頼 知らない授業は無理

卒業・入学の季節です。
桜咲く頃は、お祝いのご家庭も多いことと思います。
学生さんは環境も変わり、勉強だけでなく、いろんな経験をする時期でもあります。
私は学生時代、笑うに笑えない失敗があります。
反面教師としてご覧下さい。

当時、下宿をしていました。
ドイツ語の授業当日、どうしても別の用事が出来てしまいました。
遣っては成らないことですが、下宿の後輩に代返(出席点呼の際、代わりに返事をすること)をお願いしたのです。
彼は他学部の学生でした。
ドイツ語を学んだこともありませんし、興味すらありません。
しかし、とても気の良い若者です。

「ちょっと、お願いあるけど良い?」
「あ、良いですよ。何でも言って下さい。」
事情を説明すると、
「分かりました。行って来ます。」 と二つ返事で了解。
教室の場所と時間をメモして渡し、私は急な用事を済ませに出掛けました。

代返だけ済ませ、教室を抜け出して貰えれば良かったのです。
しかし、何が気に入ったのか、彼は何も知らないドイツ語の授業を受けた事から間違いが始まりました。

「Der. Des. Dem.・・・」単語の発音を全員で復唱している時です。
ふと先生が何かを思い出し、「あのね・・・」と言って間をあけました。
すると、それまで調子よかった彼は得意になり、すかさず「アノネ~」と大きな声で反唱してしまったのです。
教室は静まりかえり、先生も驚いたのでしょう、そのまま沈黙が続いたということでした。

一番困ったのは、当然私です。
ドイツ語の単位を落とすことはありませんでしたが、以来暫く、その授業に顔を出すのはバツが悪くなりました。
それを期に、代返の依頼を一切止めたのは言うまでもありません。

崇徳院の数奇な運命と悲劇

落語に「崇徳院」という演目があります。
崇徳院といえば、平将門公、菅原道真公と共に、日本三大怨霊のお一人として有名な崇徳院ですが、落語に取り上げられた題材は、崇徳院の詠んだ和歌です。

金持ちの若旦那と綺麗な町娘が上野にある清水堂のお茶屋で出会い、一目惚れして噺が始まります。
お嬢さんが落とした袱紗を拾い上げると、
「 瀬を早み 岩にせかるる滝川の 」と和歌が書かれた短冊を渡された。
下の句は「 われても末に あはむとぞ思ふ 」です。
末には夫婦になりましょうともとれる謎掛けの短冊を貰って以来、恋煩いで若旦那は寝込んでしまった。
それから先の顛末は、長くなるので書き尽しません。

この落語に使われた和歌は、小倉百人一首のなかに収められた崇徳院の和歌です。
「 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 割れても末に 会わんとぞ思う 」
別れても末には必ず会いましょうという恋慕の意味になりますが、崇徳院の数奇な生涯を思えばまた、その意味も少し違ったものに感じます。

崇徳天皇は、生まれながらに不幸な立場でした。
この時代、絶大な実権を握っていた白河天皇が、その原因です。
鳥羽天皇の上皇となった白河上皇は、幼い頃から寵愛していた女性を崇徳天皇の父、鳥羽天皇の后に据えます。
しかし、白河上皇はその女性が輿入れした後も頻繁に密会を繰り返していました。
そのため、鳥羽天皇の子として生まれた崇徳天皇は、白河天皇の子ではないかと囁かれていたのです。

これは、公然の秘密になっていました。
快く思っていなかった鳥羽天皇は、後の崇徳天皇に辛く当たるようになります。
白河上皇は崇徳天皇を、自分の子供であると思っていたかどうか分かりませんが、白河上皇の命により、鳥羽天皇から崇徳天皇へ若くしてその座を譲ることになります。
しかし、白河上皇が亡くなることにより、崇徳天皇は後ろ楯を失って仕舞います。
鳥羽上皇が院政を行うようになり、これまでの状況は一変するのです。

崇徳天皇は権力の座から追放され、異母兄弟の近衛天皇にその座を明け渡します。
しかし、近衛天皇は即位後、間もなく亡くなってしまいました。
近衛天皇を崇徳天皇が呪い殺したと、あらぬ噂がたちます。
それを知った鳥羽上皇は怒り、鳥羽上皇の命で崇徳天皇の同母の弟にあたる後白河天皇が即位することとなるのです。

その後、鳥羽上皇が亡くなる際には、臨終にも立ち会うことが許されず、ご遺体との面会も拒否されたそうです。
しかも崇徳院の家は、軍によって制圧されました。
何とか逃げ出すことが出来た崇徳院のもとに側近が集まり、後白河天皇と崇徳院の間で戦が始まります。
互いにそれぞれ、源氏や平氏が味方し、合戦を繰り広げることになった保元の乱です。

これに敗れた崇徳院は、讃岐の地へ配流となります。
讃岐では、反省の意思を示すため日々写経を行いました。
沢山の写経を都へ送りましたが、これに呪いが込められていると写経の受け取りを断られ、送り返されてしまいます。
これに怒った崇徳院は、自分の舌を咬み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書き記し、その後亡くなったということです。

崇徳院の死後、後白河上皇を始め側近の不幸や度重なる事件、災害が相次いで起こり、これが崇徳院の呪いではないかという噂が広がるようになりました。
冒頭の和歌は、配流となった後に作られたものではなく、天皇として即位していた若い頃に詠まれたものだそうです。
この和歌は、先に述べた通り恋愛の歌です。
しかし、運命を知ってしまった読み手は、どうしても崇徳院の不遇な生涯を重ね合わせて仕舞います。
初句の「 瀬をはやみ 」は、急流のように崩れて流された崇徳院の運命を彷彿とし、更に、「 割れても末に会わんとぞ思う 」という下の句に、都へ帰るという強い意思を感じずにはいられません。
怨霊となっても不思議ではない程の運命は、崇徳院が怖いというより寧ろ物悲しくもあり、可愛そうとも感じます。

落語の演目になった理由は良く分かりませんが、恋愛の歌としてそのまま素直に使われています。
この演目が作られた時代、誰が聞いても直ぐに分かるほど、小倉百人一首が庶民の生活に溶け込み、親しまれていたのだろうと思います。
もちろん、崇徳院が生きていた時代には、落語などありませんでした。
この演目に関わった落語家に、祟りが遭ったという話は今のところないようです。
しかし、まさか後世、自分の和歌が落語の演目に使われようとは。
崇徳院にとっては、思いもよらぬことでしょう。